「世人は心の肯ふ処を以て楽となし、却って楽心に引かれて苦処にあり。対して、達士は心の払る処を以て楽となし、終に苦心の為に楽を換へ得来る」(菜根譚)
そりゃそれが出来たら苦労せんわと思ってしまうが、ただ最近嫌なことに対して「ありがとう」と感謝することで、それに近い感覚になれる時がときたまある。まあ嫌なものは嫌なのだが…。それでも、感謝を日々行うことによって少しでも苦しみを楽しみに変換できるような境地に近づけるかもしれない。
うまくいかない状態を糧にできる人は確かにいると思う。自分もそう思えた時期があった気がする。ただ精神的に不安定になってからは、そのような変換というものができなくなってしまった。理窟としてはわかるが、心がそれに堪えられない。
理想を抱いている、明確な目標を持っている、こうしたいという強い欲望があるという条件が必要なのか。生まれ持った性質、育った環境、そういうものが前提として関わってくるのか。すぐにどうこうできるものではないのか。
どうすればよいのか。古典にその手掛かりがあると信じ、読み続けている。やり方として合っているのかわからないが、己が信じた道を進むだけだ。見る前に跳べ(Leep before you look.)である。
とにかく何かに没頭する時間を増やす。何もしないでいると、どうしてもあれこれ考えてしまう。行動する時間増えてきたのか、余計なことで悩んで何も手につかないということを減らすことができている。
やはり「~をしない」ではなく、「何か新しい行動を取り入れる」ということが必要なのだろう。「~をすれば全て解決できる」ではない。何でもいいからやり続けるんだ。一歩一歩進むしかない。一足跳びには行けないから。
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