信心

「飢へて食を願ひ渇して水を慕ふが如く、恋しき人を見たきが如く、病に薬を頼むが如く、みめかたち良き人、紅白粉をつくるが如く、法華経には信心を致させ給へ。さなくしては後悔あるべし」(日蓮上人)

何かを信じるというのは、このレベルまでいかなければ本物にならないということか。我が身を顧みても、死の恐怖、未来が不透明なことなど、言いようのない情念に圧し潰されそうな時は、古典に救いを求めた。求めざるを得なかった。

しかし、古典は明確に答えを教えてくれるわけではなかった。当たり前と言えば当たり前だが、その事実に直面する度に、「読んでも意味がないのではないか」と思って、読むのを諦めてしまっていた。

それでも、壁にぶち当たる度に自然と古典に手が伸びていた。上の名言を読むとそのようなことを思い出す。

未だに明確な何かを掴んだというところまでは行っていないが、古典に触れることそのものが、自分にとって価値のあることだと思えるようになった。

仮に書かれていることが殆ど分からなかったとしても、偉大な先人と魂を通わせるということ自体が意義深いのではないかと感じる。

もちろん、「意味が分からん。つまらん」と感じる時もあるが、それでも古典に対する信頼の念があるためか、「再読、三読の折に、今まで分からなかったことが分かるようになるかもしれない。それまでは精進あるのみ」と奮起することができる。

簡単に分かってしまっては、そこで終わってしまいつまらない。分かっている気になっていることもある。古典を血肉にするためには長い時間をかけて熟成させる必要があると思う。

縦しんばそれが叶わずとも、日夕古典と向き合っていることそのものに意味がある。自分の命が尽きるまで古人と語り合いたい。少しでも古人と友となることができればとても嬉しい。

現代的な合理主義、損得勘定が絡むとなかなかそれが徹底できない。不合理なもの、得にならないものもの、すぐに理解できないものは敬遠されるからである。

自分にもこのような考えが滲み込んでいる。それでも自分はそのような考えにできるだけ抵抗したい。

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