「倹は美徳なり。過ぐれば則ち慳吝となり、鄙嗇となりて、反って雅道を傷る。譲は懿徳なり。過ぐれば則ち足恭となり、曲謹となりて、多くは機心に出づ」(菜根譚)
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「中庸」など、いろいろに言われているが、これの実践はなかなか難しい。なぜなら正解というものがないからである。場面場面で適切な範囲が変わる。他人が良いと言っても自分が嫌かもしれないし、その逆もまたあり得る。
倹約と吝嗇の境もとても曖昧で、ここまでは倹約でよいことだが、ここからは吝嗇で卑しい行為ですよなどと簡単に決めつけることはできない。各人が何を大事にしているかを基に試行錯誤の繰り返しのなかで、ちょうどよい地点に落ち着くのを待つよりほかない。
自分は極端に傾いていないかと自省することしかできないのではないか。理屈ではどうにもならない気がしてしょうがない。人はどうしても極端から極端に考えてしまいがちだ。「保守」か「リベラル」か、右か左か、上か下か、0か100か。
だからこそ中庸などの教えは古今東西に多く存在する。それでも雲をつかむような話になり、なかなか実践が困難である。だからこそいつも我が身を振り返るというのが肝要なのかもしれない。ただ問題なのは、振り返りすぎて己を卑下しかねないことである。ここにもまた過剰の問題がある。
何か「これをしていればすべて解決」という話が巷には溢れている。すぐ成果が欲しくなる、安心したい。どうしてもその欲が出てしまう。そういう欲があってもそれを自覚することができれば、多少の修正は可能だろうか。
「いい大学に行ければ」「いい会社に入れれば」「お金がたくさんあれば」「結婚すれば」「友人がたくさんいれば」「仕事ができれば」「他人から称賛されれば」等々。世の中でいいと言われているようなものは、それ自体が全てを解決するわけではない。
自分がどう動くか、何をするか。うまくやる必要もなければ、成果がなければいけないわけでもない。これをやりたいと思うことをとにかく続けることが肝要。結果を求めてやるとだいたい続かない。いやになる。継続する、その中で徐々に工夫していく。最初から良い方法を探すというのも、続かない原因になってしまう。
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