努力は退屈であるからこそ身を結ぶのを、だれも知らなくなっている -ポール・ヴァレリー-

退屈というものの恐ろしさは大学時代にかなり味わい、今も少しながら感じている。「小人閑居して不善をなす」という言葉が何度も頭をよぎった。

退屈だからといって、仕事の忙しさでそれを忘れようとするのも、極端から極端への移動でしかない。

仮に新しいことを始めても、暫くすると飽きてくる。だからこそ継続する工夫がいる。

そもそも継続する価値があるのかないのかについては、その人の価値観による。そこに「信じる」気持ちがないと持ち堪えられない。やった先に何かしら掴めるかもしれない、という希望のようなものが欲しい。

今は何事も比較的簡単に投げ出せる。個々人の自由が増え、何をするにも自分の意志が試される。そこでは内なる欲求を探り、無条件で突き進めるような対象が必要である。

ある程度そういうものが見つかれば(なくても仮にでもいいから設定)、仕組みを作って続ける。少しでも発見があれば、継続のための材料となる。対象はなんでもよいから、己の存在をぶつけたい。

「現在に目覚めるな 宝石の限りない眠りのように」 永遠なるものとの合一。

この世の全てのものは諸行無常。だからこそ永遠に惹かれる。

放っておけばこの世のものは根無し草のようにコロコロ転がり、変化してしまう。それを留める楔の役割を果たすのが、何かに対する「信」なのではないか。

それは宗教的な「信」だけでなく、「鰯の頭も信心から」というように何でもいいのかもしれない。それは人によって様々だが、その人にとって価値のあるものである必要がある。でなければすぐに放棄してしまう。

善悪は関係ない。もちろんそれが結果的に世の中にとって悪であることことがあるが、自分自身でそれを否定したら生ける屍になってしまう。

「毒にも薬にもならない」とは言い得て妙である。今の世の中では少しでも毒の要素があると、すぐにそれを排除しようとする。そのようなことにはやはり疑問を感じる。自戒も込めてここに記す。

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