「善を為してその益を見ざるも、草裡の東瓜の如く、自づから応に暗に長ずべし。悪を為してその損を見ざるも、庭前の春雪の如く、当に必ず潜に消ゆべし」(菜根譚)
善を為して、その見返りがないように見えても、知らないうちに自分を利することがある。悪を為して、その報いがないように見えても、知らないうちに自分を害することがある。
一般的な処世訓として受け止めるのがよいのだろうが、「善悪」というのは突き詰めると結構難しい問題である。何が善で何が悪なのかを考え始めるとそれこそノイローゼになってしまう。
善悪というのは相対的なものなのではないか。立場によって変わってしまう。ある程度共通している部分もあるはずだが、究極的には一人一人異なるものである。
だから自分の中で判断基準がないと、ひたすら他人に流されてしまう。自分にとっての大事なものを押さえた上で、他人と共存を図るために知恵を出すという流れになると思う。ただ人は往々にして世の中の善悪の基準が全てだと錯覚して、自分の考えを否定してしまいがちだ。
自分にとっての善悪を考えてもいいというのは励みになる。自分にとって大事なことをして、結果が出なくても、見えないところで成長しているのかもしれないと思ったり、世間では良くても自分にとってそれが悪であることを少しでも改善したいと考えたりするきっかけになる。
何か新しいことをしようとしても、他人の目から見たらそれは「悪」になってしまうのではないかと戦々兢々として何もできなくなってしまうことが多い。自分の気持ちを抑えすぎて、自分がどうしたかったのかわからなくなる。
「何のために生きているのかわからない」と虚しくなるよりは、少しでも思う通りに行動してみたい。結局何が善で、何が悪なのかは考え続けなければならないのだ。これが答えだというものはない。善悪というのは固定化されたものではない。時代や地域、個々人によっても異なるだろう。
昔は何かにつけて「答え」みたいなものがあるだろうと色々探していたが、はっきりと示せるものではないのかもしれないと思えるようになった。
真理のようなものはあると思うのだが、それは言葉では言い表せない、渾沌の中にあるのかもしれない。絶えず偉大なものに触れ、自分の中でゆっくり消化、熟成させることによって、その一端でも感じることができるのではないか。信じて飛び込むしかない。
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