「寂を喜み喧を厭ふ者は、往々にして人を避けて以て静を求む。意人なきに在れば便ち我相を成し、心静に着せば便ちこれ動根なるを知らず。如何ぞ、人我一視、動静両忘的の境界に到り得ん」(菜根譚)
そうは言っても「喧」を避けてはいけないと考えても心は休まらない気がする。「静」というものを求め、得ていく中で、次第に動でも静でも良いかもしれないと感じることはあるかもしれない。
確かに「静かにしてくれ」と連呼していれば、心の中は荒れ狂っていて、とても静かだとは言えない。
かと言って心が拒絶している状態ではどうにもならない。無理に静を求めてはならない。それでも動にとどまることは堪え難いと八方塞がりになってしまう。
動であれ静であれ、一つところに執着するというのは無理がある。動と静は常に揺れ動いて固定されていない。でもやはり静を求めてしまう。どうにも世の中の雑音が多すぎる。
地上波の番組が嫌になったのも、やけに騒がしいと感じ始めたからだ。余計なものがいっぱい貼りついている。
昔から中庸というものが重んじられてきたが、いきなり中庸を目指すのは難しい気がする。そもそもこれが中庸ですと示せるものではない。
人は誰しもその人特有の偏りというものがあると思われるので、その本来の姿を基準にして少しずつちょうど良いところに調節するということならできるかもしれない。
寂を突き詰めて行くと少しは喧もあっていいかなと思えてくるかもしれないし、静に執着していても違和感を覚え、少しは動の要素もほしいのではと考えることもできる。
そうなるとやはり、自分が何を求めているのか、どうしたいのか、今の自分はどのような状態かなどを自己省察することが求められるだろう。
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