磨礪は当に百煉の金の如くすべし

「磨礪は当に百煉の金の如くすべし、急就の者は𨗉養にあらず。施為は宜しく千鈞の弩に似たる、軽発の者は宏功なし」(菜根譚)

磨礪は修養、施為は事業をやること。ここでも焦ってはいけないということが言われている。やはり速成は危険。

早く悟りたいとか早く成熟したいというのは原理的に厳しいかもしれない。すぐに焦ってしまうから心強い言葉だ。

ただ後半の言葉は現代では議論があるかもしれない。身軽に始めた方が上手くいくというような話もよく聞く。今のように小規模の事業というものを含んでいないからかもしれない。

大学時代は特にそうかもしれないが、とにかく何かこうすれば全て解決する、何者かになれると考えていた。

とにかく早く何とかしてくれと言っていた。そのくせ何も動こうとしていなかったが、少しづつ動けるようになってきて、昔ほどの焦りはないかもしれない。

何かをしなければならない、何者かにならねばならない、もっと充実していなければならないという思い込みがある。それはそうであったらいいが、必ずしもそうならねばならないということはないだろう。

自分で決めた「古典、古人と向き合うこと」は生涯をかけてやりたい。たまにはぼーっとしたりしてもいいではないか。ずっと夢中でなきゃいけないというのも思い込みのような気がする。明確なゴールがないと、本当にこれで良いのかとなりがち。どうしても気が弱くなるというのはある。

ただ古人の求めたところを自分も求めて行きたいという気持ちがあれは、腰を据えてできるのではないか。下手に目標みたいなものがあると、早く達成したいと逸る気持ちが出たり、達成したらしたでやる気がなくなってしまうということもあると思われる。

読書をする中でいつも迷うのが、多読か精読かという問題である。個人的には精読をやらなきゃいけないと思いつつ、ハードルが高いためできていなかった。それが心のどこかで澱のようにたまっていた。

しかし、よく考えてみれば多読か精読かというのは二者択一の問題ではなく、相互補完的な関係にあるのではないか。精読だけをやろうとするから苦しくなる。多読をする中で気になった本というのはまた読みたくなるものだ。再読、三読する中で、以前は気づかなかった問題を発見することがある。その都度そういった箇所と向き合い、精読をすればよいのではないか。

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