貞士は福を徼むるに心なし

「貞士は福を徼むるに心なし。天即ち無心の処に就いて、その衷を牖く。憸人は禍を避くるに意を着く。天即ち着意の中に就いてその魄を奪ふ。見るべし。天の機権の最も神なるを。人の智巧は何の益あらん」(菜根譚)

これは本当に耳が痛い話だ。ここ数年、自分に都合の悪いことを避けようとビクビクしていた。そうやって怯えているとかえって気分がふさぐ。それが良くないとわかっていても、恐怖に支配されてしまう。

うまくやってやろうとか、危険を避けようとしすぎるのは人間の浅知恵なのかもしれない。昔話のいぢわるなじいさんとばあさんのような考えをしてしまっている。

昔はなんであんなひねくれた考え方をしてしまうのだろうと、不思議に思っていたが、気づけば自分も同じような考え方をしていた。とても悲しい。

強迫行為も禍を避ける行為と言えよう。強迫行為を行えば行うほど、自分が苦しむことになる。頭ではわかっていても、それをとめることができず苦しむ。「強迫行為をやめよう」と強く意識すればするほど、その行為に意識が向いてしまい、離れられなくなる。「白熊の実験」の通り。

ある行動をやめることを考えるのではなく、新たな行動を増やしたり、別の行動に置き換えたりすることに意識を向けたい。

それでまず行ったのが読書だった。少しの時間でも不毛なことを考える時間が減っているような気がしたし、昔からやろうと思っていたことに着手できたことがうれしかった。

その他にも「走る」「ゲームをする」「自分の考えを書き出す」「音楽を聴く」など、何でもない事のような取り組みでも、少しずつ今までやれなかったことができるようになったのではと感じる。亀の歩みではあっても、今までの無力感よりはマシだと感じる。

他人や世間の常識に流されないようにするのが大変だ。容易に自分を否定する材料が手に入ってしまう。自分がどうするかが問題だ。他人は関係ない。

「天の機権」と「人の智巧」のどちらかに偏るのも違う気がする。以前であればすぐに、人の浅知恵なんてダメだと思ってしまっていたが、どちらかだけで行けるわけではないという視点は必要だと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました