「若し文に牽かれ迹に泥まば、便ち塵世苦海に落ちん」(菜根譚)
かつては世の中の決まり、常識というものが大事であると思っていた。その通りに振る舞えないとき、それができない自分を責めていた。しかし世の中の決まり事とされているものは絶対的ではないと徐々に理解できるようになった。
時代や地域、個々人の思想が異なっていて当然である。そうは言っても世の中で常識とされるものに抵抗するのはそれなりの代償を伴うのもまた事実。
周囲の人たちから非難され、後ろ指をさされることもあるだろう。法に抵触すればもちろん罰せられる。オスカー・ワイルドも当時違法であった同性愛で逮捕されている。
世の中と自分の考えが離れている場合、自分を通そうが、自分を否定しようが、両方荊の道である。
そうであるならば己を否定するような道を選びたくない。実際はそれを選択するのは容易ではないだろうが、何か決断する際にはそのことを思い出したい。
人為というものがありすぎると窮屈になる。こうすべきだ、ああすべきだとガチガチに固めて、全く楽しめないことが多い。
形骸化したルールは思考停止状態と同じである。ただそれに気づくためにはある程度の余裕が必要かもしれない。決まった仕事をこなすのでいっぱいいっぱいになり、何かを良くしようなどという気力がわかないからだ。
本を読んだり人の話を聞いた時に答えのようなものを得たと感じると、それですべて解決できると思ってしまうことが多かった。この人はこれでうまくいっているのだから自分もうまくいくだろうと。
冷静に考えれば他人が上手くいっても自分が上手くいくか分からない。自分に合わないこともあるし、そもそも他人がうまくいったのはその人が気づかない別の要素によるものかもしれないからだ。だからこそ自分自身が実践する中でそれが有効か否かを確かめていくしかない。
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