「一苦一楽相磨練し、練極まりて福を成す者は、その福始めて久し。一疑一信相参勘し、勘極まりて知を成す者は、その知始めて真なり」(菜根譚)
苦楽を繰り返して形成される福は、長続きする。疑ったり信じたりしながら形成される知は、本物である。福も知も時間をかけて形成されるということだろう。
片方の極からもう片方の極へ行ったり来たりしながら、落ち着くべきところに落ち着く。疑ったり信じたりというのは大学時代あたりからかなり経験しているのではないか。今もその繰り返しである。
かつては確固たる幸福や知識や真理が存在すると思っていたが(今もともするとそれに陥ってしまうが)、それはもっと柔軟なものかもしれないと思えるようになった。
あっちに行ったり、こっちに行ったりをしながら、大体こんな感じかなというものを掴めればいいなと思う。極端に居着いてしまうともう片方の極端はもちろん、無限にある中間というものを許容できなくなる。
「これが正しいんだ」「俺が正しいんだ」ということになってしまうと、他者の意見を柔軟に取り入れることが非常に難しくなる。西欧でキリスト教徒が何百年も宗教戦争をしていたように。
「こういうこともあるよね」「ああいうこともあるよね」と、いろいろなことを総合しているうちに、柔軟な考えができてくるのかもしれない。
今まで「早く安心させてくれ」「答えを教えてくれ」とわめくことが多かった気がする。だんだんと、さすがにそんな都合のいいものはなさそうだと思えるようになってきたが、まだまだ誘惑に抗うのが大変だ。巷にはその手の情報が溢れているし、本もその例外ではない。だから最近は本屋の新刊コーナーをあまり見たくないと思うようになった。
テレビのニュース、ネットもそうだ。使い方を誤ると雑多な情報に呑まれる。だからこそ古典中心の読書をするようになった。時代の試練をくぐり抜けたものは格が違うと思う。もちろん「だから古典は正しい」ということではなく、信じながらも「これはどうなの」という疑いも入れながら、「知」というものを自分の中に作れたらなと思う。
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