理窟というのは基本的に地道に積み上げるイメージだ。「こうなるからああなって、ああなるからどうなる」というふうに一歩一歩着実に進んでいく。数学の証明なども同じように進んでいく。a→b→cという感じ。
対して感覚は、理窟のように一歩一歩進むのではなく、どこかで跳躍する感覚である。なぜそうなるのかを説明することはできないが、「とにかくそうなる」という結論を出す。a→cのようにbを飛ばす感じ。
この二つはどちらが上か下かということではなく、相互補完的な間柄といえる。理窟ではわからないことを直感的に察知することができたり、感覚でやっていた粗い部分を理窟で補強したりする。
語学を学習することにおいての「理窟」は文法規則、一つ一つの単語の意味などがそれにあたると思われる。我々が語学を学習する際は必ずこの理窟から入るのではないだろうか。しかし、母語の習得過程を考えれば、順番がおかしいのではないかと思い至る。
赤子のとき、絶えず周囲の人間が発する言葉を聞き続ける。もちろん事前の知識など一つもない。それなのに、気づくと無意識のうちに母語を話せるようになっている。
新たに語学を学習する際には、まずとにかく大量の文章を読んだり、音声を聞いたりするところから入るのがよいのではないか。ある程度読んだり聴いたりすると、自然と「なんとなくこんな感じではないか」という感覚がつかめるのではないかと思う。そこではじめて理窟の肉付けを行うというのが順序ではないのだろうか。
ただこの方法はとても時間がかかり、従来の学習方法の方が、着実に知識、理窟が増えるのではという誘惑が絶えず襲ってくる。自分のように趣味で語学学習をしている者にとっては、そのような遠回りの方法をとってみるのもよいのではなかろうか。
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