死土産

いかほど物知りではあっても、それをあの世に持っていくことはできない。

「貧しくて外に出られず、人とあまり関わることができなくとも、夜、灯りがなくて本を読むことができずとも、暗闇の中、淋しくもなく、心楽しく過ごせるようにならなければ本物ではない」(秦山語録)

なかなかこの境地に至るのは難しい気がする。現代人は特にそうだと思う。娯楽がないと、すぐに退屈してしまう。

例えばどんなことをすれば暗闇の中でも楽しめるのか。覚えた歌を口ずさむ、または頭に流す。空想を楽しむ。頭の中で将棋など、ゲームのシミュレーションができる人もいそう。自分が解決したい問題について考えることもできる。(頭の中だけで考えるのは難しいから個人的には紙に書いて考えたいが…)星などの天体観測。周りの風景の観察もできそう。暗くても音を頼りに観察することもできる。

自分はともすると何かに縋っていないと不安になる性分なのかもしれない。家族、友人、お金、仕事。もしかすると古典もそうかもしれない。古人を友とするのと、古人に縋るのとでは雲泥の差があるような気がする。法灯明と同時に自灯明が必要だということか。

弱い自分を何とかしたくて、何かに頼ろうとしているのかもしれない。ただそれだと、単なる依存になってしまう。新たに何かを付け足すのではなく、「ありのままの自分」というものを受け入れたい。禅の考えにもあるような気がする。

そうすれば独立した一人の人間として、古人と語らうことができるような気がする。まだまだ未熟な自分では厳しいかもしれないが、できると信じて古典と向き合い続けたい。

小学生、中学生ぐらいの頃までは、物知りであるというとこ自体に価値があると思っていたが、(一時期の高校生クイズなど)高校生あたりから、それに疑問を抱き、勉強も手につかなくなった。(ただの逃避とも言える…)第一志望の大学にも行けず、良いところに就職することもできなかったが、それでも考え続けることができるので、悪いことばかりではない気もする。

コメント

タイトルとURLをコピーしました