「善く書を読む者は、手の舞ひ足の蹈む処に読み到らんことを要して、方めて筌蹄に落ちず。善く物を観る者は、心融け神洽ぐの時に、方めて迹象に泥まず」(菜根譚)
どちらも見かけに惑わされることなく、その奥を見極めることができて、はじめて物事に熟達しているといえるということだろうか。「古人の求めたる処を求めよ」ということか。
ただそこに至るにはどうしたらよいのか。今できそうなのは、折に触れて古典を読み返し、考えを深めていくことか。理想のやり方を最初から目指すのは難しい。それをやろうとすると継続できなくなる。やっていく中で少しずつ工夫して行く必要がある。
表面に惑わされないようにといっても、未熟な段階ではそもそも、何が表面的で、何が本質的なものなのかを見分けることも難しいのではないか。
だからこそ、過去の優れたものに触れることで、見識を養うことが必要なのだろう。美術品でもまずは過去の偉大な作品をたくさん見ることから、真贋を見分ける力をつけると聞いたことがある。
最初から優れたものを見分けたい、最初から本質を見抜く力を得たいという欲はなかなか厄介だ。地道な努力を否定する方向に向かってしまう。そもそも何が正解なのかわからない以上、これが最適解だといえるものはないのではないか。少なくとも人間の頭で見つけられるものではないのではないか。
過去の偉大な人物、作品に絶えず触れることで、良いものと悪いものを識別する力が徐々につくと信じ、一歩一歩、進んでいきたい。
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